千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歴史・文化・詩歌・音楽について語ります。

6月23日、平重衡薨去

 

はじめに

 

 みなさま、こんにちは。千種有宗です。

 

 今日から「和歌で学ぶ今日は何の日」という連載を始めます。

 今日この日、日本史上で何が起こったのか。誰が生まれ誰が死んだのか。それを和歌を通じてお伝えしよう、という内容の連載です。

 

 第1回の今日は、6月23日。

 今から836年前の寿永4年*1(1185)6月23日は、三位中将・平重衡薨去した日です。

 

 彼の最期は斬首という痛ましいものでしたが、その直前に、ある女性に手紙を送っています。その手紙に添えられた一首とともに、彼がなぜ死ななければならなかったのかを、お話しましょう。

 

 

 

平重衡の略歴

 

平重衡とは、いったいどんな人物なのでしょうか。『国史大辞典』(吉川弘文館)などを参考に、軽くまとめてみましょう。

 

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平重衡 『前賢故実』巻第七より(画像は立命館大学アート・リサーチ・センター)

 

 平重衡は、保元2年(1157)、平清盛の子として生まれました。母は継室の平時子。宗盛、知盛、徳子とは同腹になります。重衡は、清盛が保元の乱平治の乱を経て栄華を極める中で育ち、応保2年(1162)に従五位下を叙爵。尾張守・左馬頭などを経て、承安2年(1172)に姉の徳子が高倉天皇中宮になると、中宮亮を兼ねてその側に仕えました。

 

 『平家物語』巻第三「御産」には、中宮亮として、言仁親王(のちの安徳天皇)の御誕生を伝える華々しい役割を担ったことが記されています。

 

(重衡、)「御産平安、皇子御誕生候ぞや」と、たからかに申されければ、法皇を始め参らせて、関白殿以下の大臣、公卿殿上人、おのおのの助修、数輩の御験者、陰陽頭典薬頭、すべて堂上堂下一同にあツと悦びあへる声、門外までどよみて、しばしはしづまりやらざりけり。入道相国(清盛)あまりのうれしさに、声をあげてぞ泣かれける。悦泣とは是をいふべきにや。*2

 

 治承2年(1178)12月、言仁親王立太子に伴って春宮亮になった重衡は、翌年には左近衛権中将に昇ります。治承4年(1180)に親王践祚なさると蔵人頭に昇り、治承5年(1181)5月には左近衛中将従三位に叙されて公卿となりました。寿永2年(1183)には正三位に昇っています。三位中将の称は、これに由来します。

 

 

 

平重衡の人柄

 

では、重衡の人柄はどうだったのでしょう。『平家公達草紙』は次のように記しています。

 

三位中将重衡といひし人は、世にあひ、思事なかりけれど、人の嘆くことなどは、をしはかり、なだめ申などしければ、人もありがたき事に喜びけり。はな/"\を、をかしきこと言ひて、人笑はせなどぞしける。かたちも、いとなまめかしく、きよらかなり。*3

 

 他人の感情の動きに敏く、悲しんでいる人の心を和らげ、とりなすことのできる人柄。冗談や洒落たことを言って他人を笑顔にさせる陽気な人柄。その上に容貌も優れた貴公子だったようです。

 

 『平家公達草紙』は、高倉天皇に「なにか面白いことはないか」と聞かれた重衡が、「盜人の真似をして女房たちを脅かしましょう」と提案して実行に移す面白い逸話も伝えています。『平家物語』や『建礼門院右京大夫集』(建礼門院とは徳子のこと)にも、重衡の人柄が偲ばれる逸話が残されていますから、興味のある方はお読みになってはいかがでしょうか。

 

 

 

平重衡薨去

 

 さて、宮中の貴公子だった重衡の運命が変わったのは、治承・寿永の乱が勃発した頃でした。鹿ヶ谷事件の後、後白河院と清盛の関係が決裂すると、重衡も平家の武将として戦乱の中心に身を置かざるを得なくなったのです。治承4年(1180)1月に後白河院の皇子以仁王の令旨(御教書)を奉じて源頼政が挙兵すると、重衡は追討軍の大将としてこれを討ちます。続けて以仁王に味方した南都興福寺の衆徒を攻めるのですが、ここで重衡の人生を決定づける出来事が起こりました。

 南都での戦いが深夜に至ると、重衡は同士討ちを避けるために民家に火を点けて、その灯りで戦っていました。しかし、その火が強風によって東大寺興福寺にまで広がり、隠れていた女子や僧が何千人も焼死し、東大寺の大仏の首まで焼け落ちてしまったのです。その悲惨な様子を、『平家物語』は次のように伝えています。

 

をめきさけぶ声、焦熱大焦熱、無聞阿鼻のほのほの底の罪人も、これには過ぎじとぞ見えし。*4

 

 これが故意だったのか、過失だったのか。『玉葉』を書いた九条兼実など故意とする向きもありますが*5、『平家物語』は過失としています。いずれにせよ、この南都焼き討ちによって重衡は後々まで仏敵と非難され、また、自責の念にも駆られるようになるのです。

 

 治承5年(1181)に清盛が薨御し、寿永2年(1183)7月に平家が都落ちすると、重衡は平家の有力武将として各地に転戦します。閏10月の水島合戦、11月の室山合戦などを果敢に戦い、勝利を収めました。しかし、副将として参戦した寿永3年(1184)の一ノ谷の戦いで平家が破れると、重衡は捕虜となってしまいます。源氏軍に京都まで護送された重衡は、市中を引き回されたうえ、人々から南都を焼き討ちした報いだと非難を浴びせられました。そして、頼朝のいる鎌倉まで護送されるまでの間、重衡は自らの罪に向き合い、死を待つほかない身の上を覚悟するのです。

 

 今日ご紹介するのは、このとき重衡がかつて交際のあった内裏の女房に送った手紙に添えられた一首です。

 

 

 

平重衡の一首

 

 『平家物語』は、次のように伝えています。

 

西国よりとられてありし有様、今日明日とも知らぬ身の行末など、細々と書き続け、奧には一首の歌ぞありける。

涙川うき名をながす身なりとも 今一度のあふせともがな*6

 

 「涙川 うき名をながす 身なりとも 今一度の あふせともがな」。

 「悲しみの涙でできた河に、つらい評判をたてて流れる悲しいこの身だが、もう一度あなたと逢う機会があればいいなあ」。

 

 この重衡の歌に、手紙を受け取った女房が返事をします。

 

女房これを見給ひて、とかうの事をも宣はず、文を懐に引き入れて、唯泣くより外の事ぞなき。稍久しう有つて、さてもあるべきならねば、御返事あり。心苦しういぶせくて、二年をおくりつる心の中を書き給ひて、

君ゆゑに我もうき名を流すとも 底のみくづとともに成りなむ*7

 

 「君ゆゑに 我もうき名を流すとも 底のみくづと ともに成りなむ」。

 「たとえあなたのために私もつらい評判を流すことになっても、一緒に涙河に身を投げて死んでしまおう」。

 

 二人の和歌からは、優れた貴公子であった重衡と女房の艷な思い出が想起されると同時に、重衡に待つ運命を思い、いたたまれない気持ちになります。なんとあはれなことでしょうか。

 

 

 

おわりに

 

 その後、鎌倉に護送された重衡は源頼朝に厚遇されましたが、寿永4年(1185)3月の壇ノ浦の戦いで平家が滅亡すると、南都の衆徒が往年の仏敵として重衡の引渡しを要求。鎌倉から南都への護送途中の6月23日、木津川の川辺で重衡は斬首されました。享年30歳。落とされた首は奈良坂の般若寺に晒されたといいます。

 

 尚、重衡の薨去を知った女房は、すぐに出家して重衡の菩提を弔ったと『平家物語』は伝えています。

 

中将南都へ渡されて、斬られ給ひぬと聞えしかば、やがて樣をかへ、濃き墨染めにやつれ果ててかの後世菩提を弔はれけるこそあはれなれ。*8

 

 

 寿永4年(1185)6月23日の重衡薨去の事情と、その和歌を一首ご紹介しました。

 

 それでは今日はこの辺で。ありがとうございました。

 

 

 


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*1:あるいは元暦2年。平家は元暦を使用しなかった。

*2:市古貞次校注釈『新編日本古典文学全集 平家物語小学館、1994年参照。

*3:櫻井陽子・鈴木裕子・渡邊裕美子『平家公達草紙 『平家物語』読者が創った美しき貴公子たちの物語』笠間書院、2017年

*4:前掲『平家物語』巻五「奈良炎上」

*5:九条兼実玉葉』治承五年閏二月十五日条

*6:前掲『平家物語』巻第十「内裏女房」

*7:同上

*8:同上