はじめに
みなさま、こんにちは。千種有宗です。
「和歌で学ぶ今日は何の日」第2回になります。
今日は6月24日。
今から1035年前の寛和2年(986)6月24日は、藤原惟成が出家した日です。
藤原惟成は花山天皇に仕え、有能な文官として実務を執り仕切り、五位摂政とも称された貴族です。しかし、花山天皇に替えて外孫の懐仁親王(後の一条天皇)を践祚させんとする右大臣藤原兼家らの陰謀により失脚し、出家を余儀なくされます。
どうしてそんなことになったのか。以下に見ていきましょう。
藤原惟成という人
藤原惟成は、天暦7年(953)、北家魚名流の藤原雅材の子として生まれました。母の摂津守藤原中正女は師貞親王(のちの花山天皇)の乳母でもありましたから、惟成は乳母子として幼い頃から親王の信を得、親王が立太子すると東宮学士として身辺に仕えます。
ただ、親王は風雅をよく解され、詩歌に格別の素養をお持ちでいらっしゃいましたが、政治には厳格な関心をお持ちではありませんでした。
例えば、永観2年(984)10月10日の即位礼で、花山天皇は重くて暑いからと玉冠を脱いでしまわれた、と藤原実資は伝えています。*1また、同じ即位の礼において、惟成が高御座から玉佩や御冠の鈴の音がするのを不審に思って高御座の帳を開けたところ、天皇は女官との交わりの最中だった、と大江匡房は伝えています。
花山院、御即位の日に、大極殿の高座の上において、いまだ剋限をふれざる先に、馬内侍を犯さしめ給ふ間、惟成の弁は玉佩ならびに御冠の鈴の声に驚き、「鈴の奏」と称ひて、叙位の申文を持参す。天皇御手をもって帰さしめ給ふ間、意に任せて叙位を行へり。*2
ひたぶるに色にはいたくも見えず、ただ御本性のけしからぬさまに見えさせたまへば、いと大事にぞ。*3
このような花山天皇の御気性ゆえに、その治世中、官吏たちは積極的に職務を熟そうとしませんでした。さらに、天皇の外祖父である藤原伊尹が既に薨御していましたので、廟堂は関白太政大臣藤原頼忠、左大臣源雅信、右大臣藤原兼家という布陣。天皇のミウチと言える人物を欠く政局的事情もありました。
すなわち、惟成は花山天皇が践祚すると五位蔵人・左少弁に任ぜられたほか、寛和2年(986)正月には、正五位上蔵人権兼左中弁兼左衛門権佐兼民部権大輔として、三事を兼帯します。
「三事兼帯」とは、五位蔵人・弁官・検非違使佐の三職を兼務することをいいます。五位蔵人は天皇の家政を執る職、弁官は太政官の行政事務を統括する職、検非違使佐は都の司法・警察・民政を管掌する職ですから、これら三事を兼帯する者は政治の実務を実質的に統括することになります。
受領兼官の停止、諸所饗禄の禁止、破銭を嫌うことの停止、格後の荘園停止、沽売法の制定、五節の過差の禁止、小朝拝の停止、近江国大津以北衣川郷以南の漁労の禁止・・・・・・。
三事を兼帯した惟成はこれらの新制を義懐とともに施行し、花山天皇の御代は聖代と謳われる優れた政治が行われました。『大鏡』は次のように伝えています。
花山院の御時の政は、ただこの殿(義懐)と惟成の弁として行ひたまひければ、いといみじかりしぞかし。その帝をば、「内劣りの外めでた」とぞ、世の人、申しし。*5
惟成の失脚、出家
しかし、この体制は長くは保ちませんでした。
儀式において惟成が頻繁にミスを犯していることを『小右記』が記録しているように、惟成は政務に忙殺されて、次第に疲れが滲むようになります。また、惟成・義懐の出世が急であったことは、花山天皇の体制が安定してしまうと困る右大臣義家の危機意識を煽りました。義家が天皇に譲位させようと蠕動を始めたのに対して、惟成・義懐は政務に忙殺されて有効な反撃をすることができませんでした。
時に寛和2年(986)、花山天皇は寵愛なさっていた女御・忯子を失い御消沈でした。日増しに仏道への帰依を深められる天皇に、義家は天皇を出家させる隱謀を企みます。天皇が出家なされば自らの外孫である懐仁親王が践祚し、兼家の時代が到来するからです。そうなれば、惟成たちは御役御免です。
兼家は、花山天皇の蔵人である自らの子・道兼を使嗾して、天皇を出家させるべく次々と手をうってゆきます。例えば、道兼が「妻子珍宝及王位」と書かれた扇をそれとなく天皇の御目に入れ、天皇の出家をそれとなく後押ししていることが『古今著聞集』に描かれています*6。「妻子珍宝及王位」とは『大集経』の一節で、「臨命終時不随者」と続きます。つまり、「妻子・珍宝・王位を大事にしても、死後には持って行けない」の意となって、出家を暗に示しているのです。
もちろん、天皇を連れ出すよう道兼に命じたのは、兼家でした。天皇が内裏をお発ちになったのを確認すると、兼家は三種の神器を懐仁親王の御殿に移動させ、親王に践祚させます。
一方、義懐と惟成は天皇の御不在を知るや大いに慌てました。捜索の末、翌24日には天皇のいらっしゃる元慶寺に赴きましたが、もはや手遅れでした。天皇は既に御髪を落とされ、出家なさっていたのです。ここに義懐と惟成は、兼家の陰謀に敗北したことを悟りました。失脚を潔く受け入れた二人は、その場で天皇の後を追って出家したのです。
尚、その後、幼帝一条天皇のもとで兼家は摂政に就任。花山天皇に「共に出家する」と誓った道兼も、巧みに言い逃れて出家を免れ、参議に任じられました。
惟成の一首
惟成は三事兼帯を許される能吏でしたが、同時に優れた歌人でもありました。『拾遺和歌集』に1首、『詞花集』に3首、『新古今和歌集』に5首、以下勅撰和歌集に計16首が入集しています。家集『惟成弁集』も残されており、歌人としてそれなりの評価を受けていると言えるでしょう。
今回は、惟成が失脚する2週間前、寛和2年(986)6月10日に行われた内裏歌合の中から、一首ご紹介します。この歌合は花山天皇が主催され、判者は義懐だったと伝わります。
寛和二年内裏歌合に、霞をよめる
きのふかも あられふりしは 信楽の 外山のかすみ 春めきにけり
昨日ではなかったかなあ、冬の訪れを告げる霰が降ったのは。なのに、今日はもう信楽の外山に霞が立って、すっかり春めいてきた。*7
『詞花集』に入集している歌ですね。
『古今集』の「深山には霰降るらし外山なる まさきのかづら色づきにけり」を踏まえたのでしょう。しかし惟成は「深山・外山」という場所ではなく、「きのふ・けふ」という時間を「霰・霞」を通して対比させることによって、季節の変化をより劇的に捉えています。
また、「外山のかすみ」という表現は定家・為家らが用い、大江匡房の「高砂の尾の上の桜咲きにけり 外山のかすみたたずもあらなむ」*8によって今でも馴染み深いですが、惟成のこの一首が初出と伝わります。惟成の歌才が偲ばれますね。
おわりに
以上、寛和2年(986)の6月24日に出家した藤原惟成の人物像と、その一首をご紹介しました。
それでは今日は此の辺で。ありがとうございました。