千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歴史・文化・詩歌・音楽について語ります。

7月3日、吉野秀雄誕生

 

はじめに

 

 みなさま、こんにちは。千種有宗です。

 「和歌で学ぶ今日は何の日」第3回になります。

 

 今日は7月3日。今から119年前の明治35年(1902)7月3日は、吉野秀雄が誕生した日です。

 

 吉野秀雄は群馬県高崎市に生まれた歌人です。慶應義塾大学経済学部に入学しますが、肺を患って中退。故郷高崎での療養中に正岡子規伊藤左千夫の歌論に心酔。作歌を志しました。彼の歌人としての大業は、妻はつ子に先立たれる前後の痛哭を詠んだ『寒蝉集』所収の一群の歌でしょう。子規に倣った写生(リアリズム)の観点から、闘病する妻に寄り添う自身の懊惱を客観的に表現しています。

 

 今回は、その一群から一首ご紹介します。

 

 


吉野英雄の略歴

 

 吉野秀雄は、明治35年(1902)、群馬県高崎市に生まれました。生来虚弱で祖父母の元で育ち、後年妻となるはつ子は富岡尋常小学校の同級生でした。

 

 実家は割合裕福な商家でしたから、吉野も実業を志して大正12年(1923)に慶應義塾大学経済学部に入学します。前年には、かねてから両想いだったはつ子との交際を互いの両親に許され、まさに順風滿帆でした。日本女子商業学校に入学したはつ子と共に上京生活を楽しみつつ、正岡子規の歌集に親しんだ吉野は、はつ子に子規庵の住所を調べてもらって其処を訪ね、子規の妹律から往年の話を聞いたりなどしています。しかし、翌13年には下宿先で喀血。肺尖カタルと診断され、大学を中退して故郷高崎で療養することを余儀なくされました。以後、吉野は生涯にわたって病と苦闘し続けるのです。

 

 帰郷して実業の道を断念した吉野は文学を志し、正岡子規伊藤左千夫アララギ派の歌論に心酔しました。特に、肋膜炎から肺結核へと病状が進んで高熱と胸の痛みに魘されるばかりとなると、同じ苦しみを味わった子規への畏敬は更に深まりました。

 

 病床で天井を見上げることしかできない毎日。その懊惱が本格的な作歌へと吉野を導きます。写生、つまり自分の懊惱を客観視し歌に起こすことによって、生きる意志を得よう。吉野はそう思い、藻掻いたのです。『寒蝉集』後記で、吉野は次のように語っています。

 

歌を、たまきはる命かけて詠み出づることによつて、自分の懊惱を客観ならしめ、よつてからうじて生きてゆく意志にかい縋ることができた。*1

 

 はつ子が吉野の病と懊惱に寄り添ったことも、彼に生きる意志を与えました。吉野が肺結核を発病してからも、はつ子はその愛情を変えなかったのです。大正14年(1925)年に高崎から神奈川の鎌倉に吉野が転地療養すると、はつ子も吉野の借家に同居し、献身的な看護を行いました。その甲斐あって翌年に吉野が小康状態を回復すると、二人はついに結婚を果たします。幸せの中で、吉野は療養中に詠んだ歌を『病牀歌集 天井凝視』*2と題し、出版しました。


 もっとも、吉野の病はその後もぶり返し、何度も生死の境を彷徨うことになります。はつ子はその度に吉野を支え、やがて男女四人の子供にも恵まれて、夫婦は幸福な生活を営むことができました。吉野は隨筆『やはらかな心』で次のように述べています。

 

わたしは上州高崎の生まれで、家は織物の問屋。生来の虚弱体質が嵩じ、慶応経済学部の卒業を目前にして胸の病にかかり、それ以後ほぼ十数年療養してひととほりは落ち着けることができたやうなものの、じつはその後も病はずうつとつづき、こんにちに至るまで尾を曳いてゐる。

(中略)
さういふさなかの昭和元年、二十五のをり、最初の家内のはつ子をめとつたといふのは、ずゐぶん無茶なことのやうだが、ほんたうはけつしてさうではない。学生時代に約束した女性で、病人でもかまはないからいくといひ、まるで看護婦代わりに来てくれたのだが、これがわたしにとつてどんなに幸福だつたか、とてもいひつくせるものではない。わたしはその後も、一年はさんで二度も肺炎にかかり、生死の境をさまよつたこともあるが、結局凌ぎをつけることのできたのは、まつたく家内の献身的な看とりと励ましによるものといはねばならない。*3

 


 ところが昭和19年(1944)、吉野と子どもたちを残して、はつ子は突然此の世を去ってしまいます。

 

はつ子は人一倍丈夫なたちだつた。わたしのはうが先立つべきことは、自明のものとしてゐた。さういふ彼女が四十をすぎると、胃の潰瘍を病むやうになり、 (中略) 昭和十九年の夏、にはかにわるくなり、鎌倉市内のS外科に入院させたが、検査の結果胃の中にできた肉腫といふ難病と判明し、やがて両肩と右腕への転移も認められ、もはやどうすることもできず、ひと月もたたぬ八月末、あへなく奪はれてしまつた。*4 

 

 急速に進行するはつ子の病状。死を覚悟してゆくはつ子の感情や行動の移ろい。それを見つめることしかできない吉野の煩悶。それが分からない子どもたちの健気な様子。はつ子を看病した一か月を写生したのが、『寒蝉集』所収の一群の歌なのです。

 

 

 

吉野秀雄の一首

 

 今回は、その歌群の中から一首ご紹介します。

 

坐りては をりかぬればぞ 立上り 苦しむ汝を われは見おろす*5

 

 作歌の状況は、吉野自身が次のように語っています。

 

すでに食慾皆無で熱高く、脈も呼吸もみだれ、寸時も休みのない全身の疼痛にさいなまれる妻を、わたしはどうしてみようもなく、立ちあがつてじつと見つめてゐるといふ歌*6

 

 また、吉野は次のように自註しています。

 

坐つてゐられないので、立上がつて病人の苦痛を凝然と見下ろしてゐる。見下ろしたとて、それが苦痛を一毫をも減ずることのできぬはいふまでもない。だが、それでも何でも見下ろしてゐなくてはならぬ。それがぎりぎりの自分の愛情の表出である。*7

 

 思うに、はつ子を愛する吉野にとって、はつ子の苦しみは彼自身の苦しみと同じだったのでしょう。はつ子が病に苛まれる様子は直視できないものでしたが、それから目を逸らすことは、自分だけが苦しみから逃れるようで、吉野には堪えられないことだった。そうは言っても、吉野には、はつ子の苦しみを和らげることはできません。何の役にもたたない。そんな無力感に苛まれながら、はつ子を見つめることしかできないのです。そして、それさえも耐えられずに立ち上がってしまう・・・・・・。

 

 「をりかぬればぞ立上り」。この吉野の動作、その写生に、彼の精神の緊張と悲痛な愛情、そして痛哭が感じられます。

 

 


おわりに


 はつ子の死後、吉野は後妻を娶って昭和42年(1967)まで生きました。その間、『吉野秀雄歌集』により読売文学賞受賞、第1回迢空賞受賞、『含紅集』により芸術選奨受賞。優れた良寛関係の著作も残しています。

 歌壇からは超然としていましたが、世人の記憶に残る歌人だったと言えましょう。吉野の故郷高崎市では、「吉野秀雄顕彰短歌大会」が開催されています。ご興味があれば、みなさまも応募してみてはいかがでしょうか。

 

 以上、明治35年(1902)7月3日に誕生した歌人、吉野秀雄の一首を紹介しました。

 それでは今日は此の辺で。ありがとうございました。

 


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*1:「『寒蝉集』後記」『吉野秀雄全集』第1巻所収、筑摩書房、1969年

*2:同上『全集』第1巻所収

*3:「やはらかな心」『全集』第5巻所収、筑摩書房、1977年

*4:同上

*5:「寒蝉集」前出『全集』第1巻所収

*6:同上

*7:「自註 寒蝉集」『全集』第2巻所収、筑摩書房、1969年