千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歴史・文化・詩歌・音樂に就いて語る

【#5】評傳01「信松尼松姬」

はじめに

 志操堅固と謂ふ言葉が頽れて久しい。「志操」とは、「守って変えない志*1」のことだが、今や政治家にさへ志操のある者はない。彼等から確固たる美學や理念を、或いは人生觀や國家觀を聞いたことがあるか。ペリクレスのやうな演說*2をする者があるか。彼等大衆はモグラ叩きのモグラのやうに現れては消える流行を追ふだけで、姿を消したモグラには一切の關心を失ひ平然としてゐる。政治家の政策は使ひ捨てられる流言流行に過ぎないのだ。

 

 

 その點、昔の人は立派だ。志操堅固なる男女の逸話は我が國に於いても枚擧に暇がない。本稿では武田信玄の娘・松姬の人生*3を槪觀して彼女の志操堅固なることを見たい。

 

 


織田信忠との婚約

 松姬は永祿4(1561)年、古府中躑躅ヶ﨑の武田家居館で生まれた。父は甲斐の虎と呼ばれた武田信玄、母は側室の油川夫人である。同年には、八幡原の戰(第四次川中嶋の戰)があり、一說によれば、信玄は陣中で姬誕生の知らせを受け「戰勝疑ひなし」と大いに喜んだと云ふ*4。尤も、八幡原の戰は越後の龍と呼ばれた上杉政虎(謙信)が自ら信玄の本陣に斬り込んだと傳はる激しい戰で、賴山陽が「流星光底長蛇を逸す」*5と詠じたやうに信玄は辛うじて逃れたものの、武田信繁や山本勘助ら多くの武將が討ち取られたのだつた。

 


 この頃、西の尾張では織田信長が桶狹閒で今川義元を破り、永祿10(1567)年9月には稻葉山城を落として美濃を平定した。東には獨立した德川家康がをり、家康・謙信・信長に挾擊されてはたまらぬと、同年12月、信玄は松姬と信長の嫡男信忠との婚約を結んだ。信長も婚約は望むところだつた。美濃を押さへて京畿に手を伸ばさんとするに、その後ろを窺ふ信玄との同盟は必須であつた。織田家から武田家に送られた結納の品は、酒樽・肴、虎の皮3枚、豹の皮5枚、緞子100卷、鞍と鐙10口、厚板・薄板・緯白・織紅梅を各100反、帶300筋に錢100貫とかなり豪華で、信長の意圖が知られる。輿入れまで松姬は信忠正室として遇され、躑躅ヶ﨑の一畫に新館が誂へられて新館御料人と呼ばれた。松姬7歲のときである。

 松姬の婚約者信忠は、幼名を奇妙丸と云ひ、織田家家督を繼ぐ者としての敎育を受け、優れた才能を發揮してゐた。松姬とは手紙や贈物の往來の中で深い關係を築いたものの、實際に對面する機會には惠まれなかつたらしい。が、信忠の三男秀信は松姬との閒の子との傳說もあるから*6、信忠が人目を避けて武田領内まで來て、逢瀨することがあつたのかもしれない。

 然し、昨日の敵は今日の友となり、今日の友は明日の敵となる戰國の世である。元龜3(1572)年に信玄が西上作戰を開始して三方ヶ原の戰に至ると、信長が佐久閒信盛率ゐる3000名の援軍を家康に送つたため、武田・織田兩家は完全に手切れとなり、松姬と信忠の婚約も自然消滅してしまつた。松姬12歲のときである。前年には油川夫人が亡くなり、元龜4(1573)年には信玄も卒去した。父母と婚約者を一時に失つた松姬は、憔悴して淚ながらに明け暮れを迎へたと云ふが、「約束だけのこととは云へ、私の夫は信忠さまのほかに生涯二人とないのだから、これからは尼となつた積りで暮らしませう」と決心し、質素な暮らしを旨とし、容姿は尼でなくとも心は早くも尼のやうになつたと云ふ。以降、新たな婚約がなかつたのは、松姬の志操堅固なことによると考へたい。信忠も鹽川長滿の娘などを娶つたが、正室は空けてゐた。

 

 

 

武田氏の滅亡と逃避行

 信玄の後を繼いだ武田勝賴は、天正3(1575)年の長篠の戰で織田・德川連合軍に大敗し、武田家は古參の重臣の殆どを失つた。鐵壁の團結を誇つた武田軍團は瓦解し、滅亡が豫感されるまでになつた。「人は城人は石垣人は堀情けは味方仇は敵なり」と信玄は云つたが、守勢に追ひ込まれた勝賴は人を得ずして城を築き始めた。韮山新府城である。天正9年(1581)年12月には防御力の低い躑躅ヶ﨑の館を燒き拂つてこの城に移り、翌年正月には祝宴を開いた。

 躑躅ヶ﨑の館と共に松姬の新館も燒き拂はれたので、松姬は信濃の仁科氏を繼いだ同母兄の仁科盛信(信盛)の庇護を得て、彼が城主を務める髙遠城に招かれた。盛信は結婚を勸めたが、松姬は信忠への志操堅固にしてこれを拒んだと云ふ。天正10(1582)年10月の天正壬午の亂に當つて甲州の女狩りをした家康は特に松姬を求めた、と三田村鳶魚が傳へるやうに*7、松姬は容色端麗であつたらしいが、身體よりもさらに心が美しかつたと云ふべきであらう。松姬22歲のときであつた。

 


 天正壬午の亂に先立つ天正10(1582)年2月、木曾義冒の謀反を契機に織田軍による甲州征伐が開始された。「三日路ある大切所」と稱された平屋・浪合口を守る下條信氏が家臣に背反されて織田軍の侵入を許し*8、木曾口を守る松尾城の小笠原信嶺も背いて織田軍の進軍を許した。かうして難路を難なく通過した織田軍は飯田城・大嶋城・春日城・福與城・上の平城・宮所城を次々と陷れて、伊那地方を占領した。

 織田軍が髙遠城に迫つてゐると聞いた盛信は、松姬に3歲になる小督姬を預けて東の新府城に逃がした。松姬は新府城で盛信の嫡男勝五郞(仁科信基)を預かり、さらに勝賴の娘・貞姬(4歲)、小山田信茂の人質・香具姬(4歲)を預かつて、古府中の入明寺に入つた。同寺には異母兄の龍芳(海埜信親)がをり、此の最年長の兄を賴つたのである。尙、龍芳は松姬一行の無事を祈つて送り出すと自分は同寺に殘り、勝賴自刄の知らせを聞いて自害した。

 さて、入明寺を出た松姬一行は東へ下り、武田家所緣の開桃寺を經て、2月下旬には鹽山の向獄寺に入り、勝敗の決着を待つた。武田軍は敗走續きであつたから、この頃の松姬と子供の不安は計り知れない。松姬は誇り髙い武田の姬である。運命に殉じて盛信・勝賴と共に果てる覺悟もあつたであらう。然し、兄から後事を託された責任を全せんとする堅固な志操と强靭な意志力が、松姬をして不安に立ち向かはせたのである。

 

 

 2月末に髙遠城前に姿を現した5萬の大軍を率ゐてゐたのは、松姬の元婚約者信忠であつた。髙遠城を攻略すれば、新府城にある勝賴を完全に孤立させることができる。3月1日の朝、信忠は使者を發して盛信に降伏を勸めたが、盛信は拒絕して髙遠城に籠城し、翌2日、織田軍を3千弱の兵で迎へ擊つて玉碎を果たした。

 髙遠城に咲く櫻が赤いのは、盛信ら武田家臣の血の色だとよく云はれる。盛信は武勇だけでなく治政にも優れた君子であつた。淺井冽の作になる長野縣歌「信濃の國」*9第5番が、「旭將軍義仲も仁科の五郞信盛も 春臺太宰先生も象山佐久閒先生も 皆この國の人にして文武の譽たぐひなく 山と聳えて世に仰ぎ川と流れて名はつきず」と歌ふのがその證據である。松姬にとつても信賴できる兄であつた。信忠が盛信に降伏の使者を發したのも、盛信の世評に信賴して松姬の安否を確認する意圖だつたと考へたい。

 


 さて、髙遠城陷落前後から勝賴に見切りを付けて織田軍に走る武將が續出していた。不運を悟つた勝賴は新府城に火を放つて郡内の岩殿山城に逃れんとしたが、やはり岩殿山城主の小山田信茂に背かれて天目山への敗走を餘儀なくされると、嫡男信勝や繼室北條夫人と共に自刄した。3月11日のことである。尙、信茂は功を賴んで信長への拜謁を願ひ出たところ主君を裏切つた不忠を咎められて處刑されたので、松姬が預かつた子供の父親は、皆この世から亡くなつてしまつた。

 

 


八王子へ

 勝賴の自刄を知つた松姬は、殘黨狩りを避けて向獄寺を發ちさらに東へ向かつた。大菩薩峠を越え、小菅村の峠(松姬峠)を越え、鶴峠を經て案下峠(和田峠)を下り、武藏の金照庵に到着したのは3月27日のことであつた。金照庵は、向嶽寺の第3世俊翁令山が開山した興慶寺の別庵で*10、今の八王子市立恩方第二小學校が蹟地である。勝賴と共に自刄した北條夫人の兄に八王子城主北條氏照がをり、北條家當主氏政の正室は松姬の異母姊黃梅院であつた。その緣を賴つたのだらうが、命の保證はなかつたし、幼い子供を連れて幾つもの峠を越える旅は、いつ敵に見つかるかも知れず、肉體的にも精神的にも嚴しいものだつた。然し、素よりの志操堅固と責任感が松姬を動かし、無事氏照の庇護を得たのである。

 甲州征伐後、氏照を通じて松姬に知らせが齎された。八王子に松姬が落ち延びてゐることを知つた信忠が、松姬を改めて正室に迎へたいと云ふのである。愛し續けてきた相手であるが松姬には葛藤があつた。然し、政畧的に價値のない自分を敢へて求める信忠の愛情に打たれた松姬は、信忠の求めに應へることを決意した。ところが運命とは無情なもので、信忠の許へ向ふ道中の6月2日、本能寺の變が勃發し、信忠も自刄を果たした。これを知つた松姬は、八王子に歸つて氏照の祈願寺である心源院に移り、第6世隨翁舜悅の下で正式に出家して信松尼と稱し、武田一族と信忠の菩提を弔ふことを誓つたのである。

 「信」の字は父信玄に肖つたのだらうか、或いは信忠に肖つたのだらうか。

 

 

 

その後

 天正18(1590)年、豐臣秀吉の小田原征伐で北條氏が滅びると、家康が舊北條氏領國に國替された。先立つ天正壬午の亂を經て武田氏舊臣を獲得してゐた家康は、元橫目衆を八王子に移住させ、翌天正19(1591)年には武田氏舊臣の大久保長安(土屋長安)に8000石の所領を與へて大代官に任じた。八王子に陣屋を置いた長安は家康に對して武田氏舊臣からなる八王子五百人同心の創設を具申して認められ、慶長4(1599)年には同心を倍に增やして八王子千人同心とした。かうした武田氏舊臣の援助や、松姬の消息を知つた家康の氣遣いを得て、松姬は一族と信忠の菩提を弔ひつつ寺子屋で讀み書きを敎へ、養蠶・染色の技術を學んで織物を織り、その收入で子供を養育する日々を送つた。松姬は千人同心の婦女を雇つてかなりの規模の事業を行つたとされ、現在の八王子織の基礎を築いたとも云はれてゐる。

 江戸幕府の初めには、年寄まで昇つた長安を始め武田氏舊臣がよく用ゐられた。松姬の預かつた子供も成長して幕府に從ひ、盛信の嫡男信基は、長安の取り成しで仁科家の存續を認められ、3100石の旗本として仕官した。小督姬は法蓮寺で出家して父母の冥福を祈つた。勝賴の娘・貞姬は髙家の宮原義久に嫁ぎ、小山田信茂の娘・香具姬は内藤忠興の側室に入つた。また、武田氏舊臣の穴山信君(梅雪)の正室に入つてゐた異母姊の見性院が慶長15(1610)年に秀忠の子の幸松を預かると、松姬も彼の養育に攜はり、幸松は後に武田氏舊臣の髙遠藩主保科正光に預けられて、保科正之となつた。

 

 

 元和2(1616)年6月16日、松姬は示寂する。享年56歲。長安が贈つた草庵は隨翁舜悅が開山となり、松姬を開基とする信松院となつた。

 

 

 

むすび

 以上、松姬の人生を槪觀して、彼女の志操堅固なることを見た。「操」を訓じて「みさを」と訓むが、その原義は「御靑」であり、世俗を超越した靈妙な靑さを表したと云ふ*11。それが常に靑さを保つ松など常綠樹の不變の美を意味するやうになり、志操のことも意味するやうになつたのである。名は體を表すと云ふが、松姬(信松尼)と云ふ名こそは、彼女の志操の堅固さをよく表してゐる。「信松院百囘會場記」*12も「生まれて容色志操あり」と傳へるくらゐだ。彼女が信忠に操を立て、また一族と信忠の菩提を弔ふ堅固な志操を强靭な意志力で實行に移したことが、今も尙彼女の生き樣が語り繼がれる所以である。

 現今の政治家に、後世語り繼がれるほどの志操を持つた者がゐるだらうか。腦死國家の哀しみである。

 

 墨染の 袖を淚に 染めなほし みさをに人を まつ姬の寺(宗治・2)

 

 


人気ブログランキング

 

*1:「志操」新村出編『広辞苑(第6版)』岩波書店、平成20年、8694頁。

*2:例へば、前430年の戰死者國葬の際の演說を見よ。トゥキュディデス『戰史』第2卷第34-46章、參照。

*3:以下特に注なきものは、細野哲弘「託孤帰命に導かれ(その1)―武田松姫の生涯―」『特技懇』302号、特許庁技術懇話会、令和3年、137-145頁、による。また、ウェブサイトの閱覽日は投稿日である。

*4:八王子見て歩記/松姫さま1 : 八王子見て歩記

*5:賴山陽『題不識庵擊機山圖』。「鞭聲肅肅夜過河、曉見千兵擁大牙、遺恨十年磨一劍、流星光底逸長蛇」。

*6:織田秀信 - Wikipedia、參照。

*7:三田村鳶魚全集「公方様の話」『三田村鳶魚全集』第1卷所收、中央公論社、1976年。

*8:「……信氏父子に於ては、無二に思切つたる由、荒らかにいひければ、彼の三人の者共、興醒顏にして陣屋へ立歸り、此上は我れ人の身命大切なりと覺悟して、己が親類緣嫁の者共に、觸れ廻りければ、興黨の凶徒、四五百人に及べり。此由を伊豆守聞いて、敵の爲めに討死にせんは、尤も本意なり。さなうして、家來の者共の手に懸り、我等父子が首を、見上にせられんよりは、是より引廻し、勝賴の眼前にて、討死を遂ぐべしとて、平屋より取つて返されけり。扨こそ、平屋・浪合口、最前に破れて、三日路ある大切所を、足をも穢さずして、敵は下伊那迄を打入りける」。『甲亂記』「小笠原下條伊那衆逆心の事」。引用は、『武田三代軍記』文事堂、明治19年、281頁。

*9:信濃の国 - Wikisource、參照。

*10:興慶寺 (八王子市) - Wikipedia、參照。

*11:「古く『風声、風流、気調、雅、美、麗、工』などを『みさお』と訓んだ。原義は『御青』であり、霊妙な青さを表す語であった。そこで、つねに青さを保つ常緑樹のような不変の美を意味するようになったらしい。また、物事がつねに変わらないこと、心が周囲の状況に影響されないこと、固く志操を守ること、そしてより限定的に女性の貞操をさす用法が生じた。古語では、超俗の美、精神や行動の典雅をいう場合があり、考えや態度が変わらないところから、平静なようす、なにげないさまをもいった。『操つくる』とは平静を装うこと、『操をたてる』とは節操や貞操を守る意、『操を破る』とは節操を曲げ貞操をけがす意である」。操とは - コトバンク

*12:「……武州多麻郡八王子庄横山信松禅院者、被甲斐州主武田信玄公諱晴信第六之女新舘禅尼開基焉、尼公、諱阿松、始新造別殿居之、故人呼称新舘君、母油川氏、生有容色志操、八歳与織田信忠約婚、比至十二歳、有故而絶、翌年信玄卒、時母先卒、以故常依兄仁科公信盛、居止言行如孤孀者、所親憐之強嫁之、尼公辞曰、吾雖未醮聘礼已行、任命亦有年矣、則今豈忍而背之哉、且我久以禱考妣冥福為念、不欲関人世々草、遂退断髪禁肉、持節頗厳、于時十八歳……」。「信松院百回会場記」斎木一馬=岩沢愿彦校訂『徳川諸家系譜1』続群書類従完成会、昭和42年、159頁。