千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歴史・文化・詩歌・音樂に就いて語る

【#18】國史餘話004「奧平謙輔とフグ」

はじめに

 EurekAlert! からテトロドトキシンの效率的な合成法が新たに發表されたとのニュースが通知された。

 テトロドトキシンの合成は岸義人博士が全合成に成功して以來、否、田原良純博士が單離に成功して以來、日本人が貢獻してきた分野である。何故日本人がテトロドトキシンの硏究に功績を擧げてきたかと云へば、テトロドトキシンがフグの(生物濃縮による)毒であることが大きい。死を覺悟して――時には實際に犧牲を拂つて――フグの食べ方を硏究してきた我が國の食の歷史がなければ、今囘の硏究も在り得なかつたのである。

 さて、フグと謂へば長州山口である。今囘は長州藩士奧平謙輔のフグに纒はる傳說を紹介する*1

 

 

 

奧平謙輔とフグ

 その前に、髙校日本史を振り返つておく。奧平謙輔に就いて、受驗生は以下のことを覺えておかねばならない。

 

 明治政府の諸政策に不滿を募らせてゐた所謂不平士族は、明治六年の政變(1873年)で征韓派參議らが下野に追ひ込まれると、これを糺合して政府批判の運動を本格化させた。板垣退助・後藤象二郞・副島種臣を擁した一派が自由民權運動の形で政府批判を展開する一方、江藤新平・西鄕隆盛を擁した一派は武力反亂を企圖した。早くも明治7(1874)年には、江藤新平が鄕里佐賀の不平士族に擔がれて征韓黨黨首となり、嶋義勇を黨首に擔いだ憂國黨と共に政府に反亂した(佐賀の亂)。參議兼内務卿大久保利通を實質的な首班とする政府は、兩黨首を斬首梟首に處して士族反亂への强硬姿勢を示す一方、板垣らの民權運動には一部讓步して不平士族の制御を試みた。然し、明治9(1876)年3月に廢刀令が公布され、次いで8月に秩祿處分が斷行されると、熊本の不平士族(勤皇黨)が太田黑伴雄の誓ひにより敬神黨(神風連)を結成し、10月24日には熊本鎭臺襲擊に及んだ(敬神黨の亂)。これに呼應して、27日には宮﨑車之助ら舊秋月藩士が擧兵し(秋月の亂)、翌28日には奧平謙輔ら山口の不平士族も前原一誠を擁して擧兵に及んだ(萩の亂)。さらに明治10(1877)年には、鹿兒嶋の私學校黨を中心とする不平士族が西鄕隆盛を擔いで政府に叛旗を飜し、閒もなく九州南部を戰場とする内戰に發展した(西南戰爭)。

 

 前原一誠らと共に萩の亂を起こして斬首に處された奧平謙輔であるが、維新後の一時は、越後府權判事の職を得てゐた。彼の權判事時代に次のやうな傳說がある。

 


 權判事として佐渡に赴任した奧平は、長州人らしく酒をよく飮み、フグを好んで食べてゐた。同僚がこれを危ふく思つて諫めるけれども、一向に聞かぬので皆諦めてゐた。或る日、場末で散步をしてゐると、茶屋の老婆が聲をかけてきた。頻りに茶を勸めるので、一盃休憩することにした奧平は、暫し老婆と世閒話に興じた。そのうち、老婆が自分の身分を知らずに聲を掛けたのだと知つた奧平は、老婆に質問した。「最近、判事に奧平と云ふのが赴任したらしいけれども、ご存知か」と。老婆は答へて、「顏を見たことはありませんが、噂は聞いてゐますよ。隨分よい仕事をしてゐるとか。でも、どうやらフグを好んで食べるやうで、まつたく命知らずの人だなあ、と皆が噂してゐます」と言つた。奧平は老婆の答へを聞いて、自分の非を悟り、以後フグを食べるのを止めてしまつたと云ふ。

 

 

 

むすび

 茶屋の老婆にまで自分の趣向を知られては、恥じ入つてしまふのが武士の道理だらう。フグを止めなかつたら、奧平は謀反による斬首よりある意味不名譽なフグの毒で死んでゐたかもしれない。ちなみに政府は明治15(1882)年に全國にフグ食を禁じたが、この禁が一番最初に解かれたのは山口縣であつた。

 

 


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*1:中川克一編『近世偉人百話』至誠堂明治42年、232-233頁、參照。