千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歷史・文化・詩歌・音樂に就いて語る

【#27】クラシック徒然01「クラリネット・ソナタ第1番ヘ短調作品120-1(ブラームス)」

作曲と編曲

 

 1890年に弦樂五重奏曲第2番ト長調作品111が完成した時、ブラームスはこの曲を以て自分の創作力が枯渴したことを自覺した。創作意慾が減退して新曲の作曲には手が向かなくなり、手稿の整理や過去作の改訂を半ば手慰みに行ふだけとなつた。閒もなく自分の死を豫感するようにもなり、遺書の準備まで始めた。ところが、翌1891年に訪れたザクセン=マイニンゲン公國でクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に接すると、彼を激賞し、創作意慾の囘復したことを傳へる手紙をクララ・シューマンに送つた。

 ミュールフェルトは1856年にマイニンゲン近郊のザルツンゲンに生まれた人で、初めヴァイオリン奏者としてマイニンゲンの宮廷樂團に入團したが、獨學でクラリネットを習得して首席クラリネット奏者に就任した。1880年に同樂團の音樂監督に迎へられたハンス・フォン・ビューローや、リヒャルト・ワーグナーからも髙く評價され、1884年から1896年に渡りバイロイト祝祭管弦樂團の首席クラリネット奏者を務めた。

 從つて、ブラームスは1891年以前からミュールフェルトと面識を得てゐたと思ふが、同年に聽いた演奏は機運熟して創作意慾を刺激したらしく、或る種の靈感に導かれるやうにブラームスは晚年の名曲を生み出した。クラリネット作品では、クラリネット三重奏曲イ短調作品114(1891年)、クラリネット五重奏曲ロ短調作品115(1891年)、2つのクラリネットソナタ作品120(1894年)がそれである。ミュールフェルトが居なければこれらの曲はなく、20世紀に作曲されたクラリネット作品も、多くは生まれなかつただらう。

 

 

 2つのクラリネットソナタは、ミュールフェルトとブラームス自身のピアノにより、1895年1月7日にウィーンで初演された。前年の11月10日には、ミュールフェルトとブラームスがクララの家に招かれてこの曲を演奏してゐる。クララの孫フェルディナンドが傳へるところによれば*1、クララはブラームスの右鄰に座つて譜面を捲り、樂章每に大いに喜んで手を叩いた。ブラームスも樂章每に「續けて構ひませんか」と聞きながら演奏したと云ふ。既に老齡に達した二人の穩やかな交流をよく傳へてゐる。

 1895年にはブラームス自身の手で編曲されたヴィオラ版が出版された。これは今でもヴィオラ奏者の貴重なレパートリーであり、實演に接する機會も多い。ヨーゼフ・ヨアヒムもヴィオラでこのソナタを好んで彈いたと傳はり、現代の優れたヴァイオリニスト――例へばシュロモ・ミンツ――もヴィオラ版の錄音を殘してゐる。

 ブラームスはヴァイオリン版も自身の手で編曲してゐるが、これは殆ど聽く機會を得ない。2020年にBMCレコードからジェンナ・シェリーがCDを出してゐるが、そのライナーノーツによれば、ヴァイオリン版はブラームスがジムロック社から出版した初版以降一世紀餘の閒絕版になつてゐたらしく、2016年にやつとペーレンライター社から新版が出版されたやうである。クラリネットソナタは、ヘ短調(第1番)、變ホ長調(第2番)と、どちらもヴァイオリンの得意ではない調性であるのが演奏に惠まれない理由だと思ふが、ブラームスが自身の手で編曲したのであるから、ヴァイオリンでこそ表現できる魅力があるのだらう。實際聽くと、ヴァイオリン版はヴィオラ版に比べ改變した部分が目立つ。ブラームスが丹念に編曲したことが窺はれる。髙松宮殿下記念世界文化賞を受賞したルチアーノ・ベリオによる管弦樂版もあるが、これも實演に接することは稀である。

 

 

 

曲の構成

 

 第1樂章 Allegro appassionato ヘ短調、4分の3拍子
 第2樂章 Andante un poco adagio 變イ長調、4分の2拍子
 第3樂章 Allegretto grazioso 變イ長調、4分の3拍子
 第4樂章 Vivace ヘ長調、2分の2拍子

 

 

 晚年のブラームスの作風を象徵する樂曲で、入念に練られた4樂章構成である。

 

 第1樂章 Allegro appassionato はソナタアレグロ形式。C-F-Es-Desと四度跳躍からの下降の動機で始まり、調性を示しつつ陰鬱な雰圍氣を釀す。この四度跳躍で始まる4小節の序奏を聽くと、すぐにブラームスの世界に導入される。思へば、ブラームスが旋律の始まりに四度跳躍を用ゐる例はかなりある。交響曲第1番第4樂章の第1主題や、弦樂六重奏曲第1番の第2樂章冒頭、ピアノ四重奏曲第1番の第3樂章冒頭がすぐに思ひつくが、探せば他にも澤山あるだらう。寂寥や憂鬱を感じる跳躍であり、ブラームスの氣風を作り上げる要素の一つであるのかもしれない。序奏が終るとすぐにクラリネットが第1主題を歌ひ、ピアノのアルペジオと共に暗澹な雰圍氣を維持する。その八分音符の音型は曲中で何度も姿を見せて全體の統一に役立つてゐる。53小節目から始まる第2主題第1句は marcato の付點リズム。ピアノに次いでクラリネットが加はるが、クラリネットはすぐにアルペジオに變はる。すると69小節目からカノン風の第2句が始まり、11小節の小結尾で提示部が終る。90小節目からは劇的な展開が開始される。第1主題を中心とする對位法的に展開は、、線と線との掛け合いがピアノの低音とクラリネットの髙音の音色の對照により强調されて美しい。これが擴大されて情熱を帶びて處理されてゆく。131小節目からの第1主題の再現は始め1オクターブ低いが、すぐに三連符のアルペジオで元のオクターブに到達、ピアノのアルペジオも動的になり展開部の餘韻を殘す。第2主題は公式通りに再現され、小結尾を經て214小節目から Sostenuto ed espressivo のコーダに入る。悲しげに沈鬱し、序奏の4小節を材料として樂章が靜かな終止に導かれる。

 

 第2樂章 Andante un poco adagio は三部形式ヘ短調平行調である變イ長調。第一部は落ち着いた雰圍氣。1小節目からクラリネットで强く呈示される主題が13小節目には dolce に替はり、下屬調の變ニ長調で35小節目から第二部に入る。第二部はピアノの輕快なアルペジオクラリネットに移る流れで、第三部に向けて移調が行はれる。變ニ長調から嬰ハ短調平行調ホ長調を經て、45小節目から3度下げてハ長調、さらに3度下げて變イ長調に囘歸すると、49小節目から第三部が始まる。第三部はピアノのアルペジオクラリネットが豐かに歌ふ。最後は低音のAsの保續音上で主題が靜かに囘想され、曲が終る。

 

 第3樂章 Allegretto grazioso は三部形式スケルツォレントラー風の長音符と3連符のリズムで、第一部が始まる。快活さよりもむしろ無邪氣な子供味を感じさせる。8小節の旋律がクラリネットからピアノに移り、次第に華やかさを增してゆく。47小節目からヘ短調に轉調して第二部に入る。ピアノが左手で2オクターブの下降をして仄かに暗さを釀すが、それも時折上昇を挾み、右手では小節を跨ぐシンコペーションが作られてゐるから、推進力を失はない。89小節目からの第三部では teneramente が加へられ、優しい雰圍氣で樂章が終る。

 

 第4樂章 Vivace はロンド・フィナーレ。序奏からファンファーレのやうにピアノがFを三囘連打し、ヘ長調に辿り着いたことを髙らかに告げる。この三音連打は樂章中に何度も姿を見せて、陰鬱から解脫したやうな柔らかい印象を與へ續ける。9小節目からクラリネットが提示する grazioso のロンド主題は、スタッカートが付いて華々しい。主題が快活に繰り返されてゆくうちに心が慰められ、あつといふ閒に終曲を迎へて仕舞ふ。

 

 


むすび

 

 私が好む樂曲や演奏は、聽いてゐるうちに微睡に落とされるやうな演奏。或いは、變性意識の中で記憶が想起されるやうな演奏である。このクラリネットソナタ第1番も、聽いてゐるうちに微睡に落とされ、幼い頃に遊び場にしてゐた神社の秋の風景が想起される。枯れ葉が風に吹かれて立てる音、學校歸りの友達が戲れ合ふ情景などが想起される。さうした想起は第4樂章を聽いてゐるときに起こるが、前の三つの樂章を經なければさうはならない。第1樂章(ヘ短調)の陰鬱と情熱が、第2樂章、第3樂章(共に變イ長調)と進むうちに次第に解され、第4樂章(ヘ長調)で溶けて哀愁に昇華される。その昇華された哀愁を記憶の想起と共に鑑賞するのが、この曲を聽く樂しみである。

 

 この曲を聽いて湧く感覺は、歌にすれば、

 

 秋の野に 子らと遊べば 百舌鳥のゐる 塔に入日の さしにけるかな

 

 このやうな感覺だ。やはり、ブラームスの樂曲は秋を感じさせ、それ以外の季節にはならない。ブラームスを秋の季語として歲時記に收錄してもよいのではないか、とすら思ふ。

 

 


人気ブログランキング

 

*1:"In the evening, Brahms brought Herr Muhlfeld to supper, the artist having just come from Meiningen. For the first time we heard the newly composed clarinet sonata. Brahms was at the piano, grandmother at his right turning over the leaves. At the end of each movement she expressed her delight; Brahms would the ask: "Shall we go on?" and, observing her pleased nod, continued to play..."
Schumann, F. (1916). Brahms and Clara Schumann, The Musical Quarterly 2(4), Oxford University Press, 507-515.