千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歷史・文化・詩歌・音樂に就いて語る

【#34】國史餘話006「日野資朝と自由主義者」

はじめに

 自由主義者は、本來自由な個人は個性を發揮する權利を有すると嘯く。然るに、G.K.チェスタトンが「繪畫の最も美しい部分は額緣である」*1と云ふのが正しくて、個人の自由や個性は傳統と謂ふ額緣の賜物であるに過ぎない。自由主義者は逸走する狂象の如く躊躇せず傳統を破壞するが、それは自由や個性の破壞であり自殺行爲に等しい。

 彼らの最近の流行は、所謂「社會的少數者」を殊更に愛で、氣狂ひの戲言を自由な個性の發揮として稱揚することらしい。その特殊な性癖を評價する助として、日野資朝の傳說を紹介する。

 

 

 

日野資朝自由主義

 その前に、髙校日本史を振り返つておく。日野資朝に就いて、受驗生は以下のことを覺えておかねばならない。

 

 討幕を決意した後醍醐天皇は、屡々無禮講と稱して權中納言日野資朝や藏人頭日野俊基ら側近と討幕の謀議を重ねてゐたが、正中元(1324)年、陰謀が暴露して資朝と俊基が幕府に捕縛され、討幕は未遂に終はる(正中の變)。この時は資朝が一身に責任を負ひ佐渡に配流されたので、天皇は深く追及されず俊基も許された。だが、天皇の討幕の志操は堅固で、護良親王宗良親王を相次いで天臺座主に任じて僧兵の協力を恃み、畿内の武士を說得して再度討幕を企てた。この陰謀は元弘元(1331)年に暴露し、幕府も六波羅探題天皇の捕縛を命じた。天皇は山城の笠置山に潛行して畿内の僧兵や武士に討幕の擧兵を募り、河内の惡黨楠木正成が赤坂城に擧兵するなどしたが無勢は否めず、閒もなく天皇は捕縛され赤坂城も落城した。翌年、幕府は天皇を隱岐に配流し、俊基を斬首した(元弘の變)。この時資朝も佐渡で斬首の憂き目に遭つた。

 

 この日野資朝に就いて、兼好は云ふ。

 

 この人、東寺の門に雨宿せられたりけるに、かたはものどもの集りゐたるが、手も足もねぢゆがみ、うちかへりて、いづくも不具にことやうなるを見て、とりどりにたぐひなき曲者なり、最も愛するに足れりと思ひて、まもり給ひけるほどに、やがてその興つきて、見にくくいぶせく覺えければ、ただすなほにめづらしからぬ物にはしかずと思ひて、歸りて後、この閒植木を好み、ことやうに曲折あるを求めて目をよろこばしめつるは、彼のかたはを愛するなりけりと、興なくおぼえければ、鉢に植ゑられける木ども、皆堀りすてられにけり。さもありぬべきことなり。*2

 

 自由主義者が所謂「社會的少數者」を殊更に愛でる姿が直視に堪へない理由が、この傳說から理解できよう。彼らの言動は、資朝が人の不具を愛でてゐるのと同じであつて、かたはら痛い。資朝が「ことやうに曲折ある」植木を見て喜んでゐる姿は、氣狂ひの「現代藝術」を、自由な個性の發揮として稱揚する自由主義者の姿に重なる。「ただすなほにめづらしからぬ物にはしかず」と得心した資朝と、「さもありぬべきことなり」と頷いた兼好を、自由主義者は決して理解することができない。「道徳の支配なくして自由の支配を打ちたてることはできない」*3のである。

 



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*1:"The most beautiful part of every picture is the frame." Chesterton, G.K. "Tremendous trifles." Jazzybee Verlag, 1929, pp.59.

*2:兼好『徒然草』一五四段。

*3:A.de.トクヴィル、井伊玄太郎譯『アメリカの民主政治上』講談社学術文庫、昭和62年、36頁。