千種有宗の「こころなき身ゆゑ」

歷史・文化・詩歌・音樂に就いて語る

【#48】古典講讀02「平家物語:木曾最期」

はじめに

 私は、【#33】で次のやうに云つた。

 

 畢竟、生は目的でなく手段である。それを知れば、生の目的の爲に自ら死を選ぶことも有り得べしと覺悟しておくのが當然である。縱ひ目的の達成が不可能になるとも、壯絕な死に樣を遂げれば、名譽を幾らか守ることができる。これ以上は無樣な生き樣を晒すのみと確信したならば、髙貴なる自裁を選ぶのが潔い。死に樣を以て生き樣と爲す譯ではないが、花は櫻木人は武士と云ふのが至言であらう。

 

 これに關連して、『平家物語』卷第九「木曾最期」を講讀する*1

 

平家物語:木曾最期

【本文】

 木曾殿は信濃より、巴、山吹とて、二人の便女をぐせられたり。山吹はいたはりあッて、都にとどまりぬ。中にも巴は色しろく髪ながく、容顔まことにすぐれたり。ありがたき強弓精兵、馬の上、かちだち、打物もッては鬼にも神にもあはうどいふ一人当千の兵者なり。究竟のあら馬乗り、悪所おとし、いくさといへば、さねよき鎧着せ、大太刀、強弓もたせて、まづ一方の大将にはむけられけり。度々の高名肩をならぶる者なし。されば今度も、おほくの者どもおちゆき、うたれける中に、七騎が内まで巴はうたれざりけり。

 木曾は長坂をへて丹波路へおもむくともきこえけり。又竜花越にかかッて北国へともきこえけり。かかりしかども、今井がゆくゑをきかばやとて、勢田の方へ落ち行くほどに、 今井四郎兼平も、八百余騎で勢田をかためたりけるが、わづかに五十騎ばかりにうちなされ、旗をばまかせて、主のおぼつかなきに、みやこへとッてかへすほどに、大津の打出の浜にて、木曾殿にゆきあひ奉る。互になか一町ばかりよりそれと見知ッて、主従駒をはやめて寄りあうたり。木曾殿、今井が手をとッて宣ひけるは、「義仲六条河原でいかにもなるべかりつれども、なんぢがゆくゑの恋しさに、おほくの敵の中をかけわッて、これまではのがれたるなり」。今井四郎、「御諚まことにかたじけなう候。兼平も勢田で打死仕るべう候ひつれども、御ゆくゑのおぼつかなさに、これまで参ッて候」とぞ申しける。木曾殿、「契はいまだくちせざりけり。義仲が勢は敵におしへだてられ、山林にはせ散ッて、この辺にもあるらんぞ。汝がまかせてもたせたる旗あげさせよ」と宣へば、今井が旗をさしあげたり。京よりおつる勢ともなく、勢田よりおつる者ともなく、今井が旗をみつけて三百余騎ぞはせ集る。木曾大きに悦びて、「此勢あらば、などか最後のいくさせざるべき。ここにしぐらうてみゆるはたが手やらん」。「甲斐の一条次郎殿とこそ承り候へ」。「勢はいくらほどあるやらん」。「六千余騎とこそきこえ候へ」。「さてはよい敵ごさんなれ。同じう死なば、よからう敵にかけあうて、大勢の中でこそ打死をもせめ」とて、まッさきにこそすすみけれ。

 木曾左馬頭、其日の装束には、赤地の錦の直垂に唐綾威の鎧着て、鍬形うッたる甲の緒しめ、いかものづくりの大太刀はき、石うちの矢の、其日のいくさに射て少々のこッたるを、頭高に負ひなし、滋籐の弓もッて、きこゆる木曾の鬼葦毛といふ馬の、きはめてふとうたくましいに、黄覆輪の鞍おいてぞ乗ッたりける。鐙ふンばり立ちあがり、大音声をあげて名のりけるは、「昔は聞きけん物を、木曾の冠者、今は見るらん、左馬頭兼伊予守朝日の将軍源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。たがひによいかたきぞ。義仲うッて兵衛佐に見せよや」とて、をめいてかく。一条の次郎、「只今なのるは大将軍ぞ。あますな者ども、もらすな若党、うてや」とて、大勢の中にとりこめて、我うッとらんとぞすすみける。木曾三百余騎、六千余騎が中をたてさま、よこさま、蜘手、十文字にかけわッて、うしろへつッと出でたれば、五十騎ばかりになりにけり。そこをやぶッてゆくほどに、土肥の二郎実平二千余騎でささへたり。其をもやぶッてゆくほどに、あそこでは四五百騎、ここでは二三百騎、百四五十騎、百騎ばかりが中をかけわりかけわりゆくほどに、主従五騎にぞなりにける。五騎が内まで巴はうたれざれけり。木曾殿、「おのれは、 とうとう、女なれば、いづちへもゆけ。我は打死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曾殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなンど、いはれん事もしかるべからず」と宣ひけれども、なほおちもゆかざりけるが、あまりにいはれ奉ッて、「あッぱれ、よからうかたきがな。最後のいくさして見せ奉らん」とて、ひかへたるところに、武蔵国にきこえたる大力、御田の八郎師重、卅騎ばかりで出できたり。巴その中へかけ入り、御田の八郎におしならべて、 むずととッてひきおとし、わが乗ッたる鞍の前輪におしつけて、ちッともはたらかさず、頸ねぢきッてすててンげり。其後物具ぬぎすて、東国の方へ落ちぞゆく。手塚太郎打死す。手塚の別当落ちにけり。

 今井の四郎、木曾殿、主従二騎になつて、宣ひけるは、「日来なにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」。今井四郎申しけるは、「御身もいまだつかれさせ給はず。御馬もやわり候はず。なにによッてか、一両の御着背長を重うはおぼしめし候べき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさはおぼしめし候へ。兼平一人候とも、余の武者干騎とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらくふせぎ矢仕らん。あれに見え候、粟津の松原と申す、あの松の中で御自害候へ」とて、うッてゆく程に、又あら手の武者五十騎ばかり出できたり。「君はあの松原へいらせ給へ。兼平は此敵ふせぎ候はん」と申しければ、木曾殿宣ひけるは、「義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまでのがれくるは、汝と一所で死なんと思ふ為なり。所々でうたれんよりも、一所でこそ打死をもせめ」とて、馬の鼻をならべてかけむとし給へば、今井四郎馬よりとびおり、主の馬の口にとりついて申しけるは、「弓矢とりは年来日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、ながき疵にて候なり。御身はつかれさせ給ひて候。つづく勢は候はず。敵におしへだてられ、いふかひなき人の郎等にくみおとされさせ給ひて、うたれさせ給ひなば、『さばかり日本国にきこえさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等のうち奉ッたる』なンど申さん事こそ口惜しう候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞかけ給ふ。

 今井四郎只一騎、五十騎ばかりが中へかけ入り、鐙ふンばりたちあがり、大音声あげてなのりけるは、「日来は音にも聞きつらん、今は目にも見給へ。 木曾殿の御めのと子、今井の四郎兼平、生年卅三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までもしろしめされたるらんぞ。兼平うッて見参にいれよ」とて、射のこしたる八すぢの矢を、さしつめ引きつめ、さんざんに射る。死生は知らず、やにはにかたき八騎射おとす。其後打物ぬいてあれにはせあひ、これに馳せあひ、きッてまはるに、面をあはする者ぞなき。分どりあまたしたりけり。只、「射とれや」とて、中にとりこめ、雨のふるやうに射けれども、鎧よければうらかかず、あき間を射ねば手も負はず。

 木曾殿は只一騎、粟津の松原へかけ給ふが、正月廿一日、入相ばかりの事なるに、うす氷ははッたりけり、ふか田ありとも知らずして、馬をざッとうち入れたれば、馬の頭も見えざりけり。あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。今井がゆくゑのおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲を、三浦石田の次郎為久おッかかッてよッぴいてひやうふつと射る。いた手なれば、まッかうを馬の頭にあててうつぶし給へる処に、石田が郎等二人落ちあうて、つひに木曾殿の頸をばとッてンげり。太刀のさきにつらぬきたかくさしあげ、大音声をあげて、「此日ごろ日本国に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久がうち奉ッたるぞや」となのりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今は誰をかばはむとてかいくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿原、日本一の剛の者の自害する手本」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬかッてぞうせにける。さてこそ粟津のいくさはなかりけれ。

 

 

【講義】

・さねよき鎧

 さねは札。鎧を構成する短册狀の板。

・石打ちの矢

 鷲は左右第一の羽で石を打ち飛び立つことから、この羽を石打と云ふ。矢羽として珍重された。

 

 

 粟津の戰を描く。最期の一戰が出來る喜びで義仲は「同じう死なば、よからう敵にかけあうて、大勢の中でこそ打死をもせめ」と奮起するが、敗戰にうちのめされて「日来なにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」と一瞬弱氣を見せる。兼平に「御身もいまだつかれさせ給はず」と勵まされて潔く自裁する氣になつた義仲だが、新手の敵を見るとまた、最期の一戰に心魅かれる。然し、兼平は「御身はつかれさせ給ひて候」と義仲を制して、敵に討たれるより潔く自裁せよと說得する。この忠義にうたれて義仲は自裁を決心し、粟津の松原へ向かふのである。この「御身もいまだつかれさせ給はず」と「御身はつかれさせ給ひて候」と云ふ兼平の矛盾した言葉の閒に、主從の深い絆が窺ひ知れる。

 結局、義仲は逡巡した報いか自裁を果たせず無樣に討たれて仕舞ふが、その後の兼平の壯絕な自裁によりその汚名は雪がれてゐる。

 

 

【追記】

 其春の石ともならず木曽の馬

 ――乙州*2

 

 


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*1:引用は、市古貞次校注「平家物語」『新編日本古典文学全集46』小学館、平成6年、による。

*2:『猿蓑』巻之四。「木曾塚」と題す。